2005年03月09日

「編集権の独立」について [ 編集権の独立 ]

 目から鱗が落ちるとはこのことだ。3月8日付朝日新聞「私の視点」花田達朗・東大教授の「編集権『報道の自由』の徹底こそ」は、最近のメディアをめぐる騒動を読み解く重要な視座を提供している。

 「編集権」は、GHQの指導で1948年に日本新聞協会が出した「編集権声明」に依拠しているという。この中で「定められた編集方針に従わぬものは何人といえども編集権を侵害したものとしてこれを排除する」と定めている。

 花田はこの狙いを「『外部』より『内部』にあり、以来、労働組合の排除や(中略)経営トップの“信念”の押しつけ、下僚へのある種恣意的圧力に使われてきた」としている。

 例えば終戦直後に読売新聞の労組が編集権を握った「読売争議」がある。これを排除するために、「編集権声明」で編集権は「編集内容に対する最終的責任は経営、編集管理者に帰せられるものである」と 定めたのだろう。よって花田は「『編集権』は冷戦の産物」と指摘する。

 つまり、新聞や電波に何をのせるかを判断する権利を守るために外部の「圧力」を排除するための「編集権」ではなく、新聞社や放送局内部の不穏分子を排除し、トップが決めたことにヒラ記者たちは従わなければならないという内部統制の論理に「編集権」が使われてきたというのだ。

 そうするとNHKの場合、NHK幹部が内部統制のための「編集権」を維持しようとすれば、予算権者である国会議員に「ご説明」することに何ら矛盾はない。政治家も「内部化」されているのだ。

 ところが、朝日新聞からすれば政治家は「外部」であるため、そこにご説明に行って政治家の意向を伺い、それに従って番組内容を変えるのは「圧力」だと問題提起した。花田は「『圧力』とはそもそも自立した主体の間でこそ生じる。政治家への事前説明を『通常業務』とえる体質のなかでは、『メディアへの介入』意識そのものが双方とも薄くなるはずだ。そうなると、客観的に見た場合の『圧力』が主観的にはなかったことになる」と指摘する。NHKからすれば「編集権」を守るために政治家にご説明しているということになり、朝日新聞からすれば「政治家に説明しているようでは、編集権も空洞化している」ということになるのであろう。NHKと朝日の議論が噛み合わないのは、ここの根本的な認識の違いと言えよう。

 さて、外部からの侵害に対して「編集権の独立」を唱えることについて、花田は「国民の知る権利に奉仕する『報道の自由』という憲法上に保証された概念を使えば十分だ」と主張する。さらに「『編集権』と『報道の自由』の混同をやめ、『編集権』自体を再考すべきである。『報道の自由』の本義にこそ立ち返るべきだ」という。

 当ブログでも「報道の自由」と「編集権の独立」を混同してきた。「編集権の独立」が外部干渉を排除する論理として位置づけていたが、組織内部の統制に使われてきた歴史的事実に当ブログも無頓着だった。経営陣の意向を忖度して取材を自制したり、社説に合わせて記事を仕立てたりという内部統制は、確かにいまでも続いている。「編集権」の悪弊である。

 NHKの番組改変問題について言えば、朝日新聞は放送法第3条「放送番組は、法律に定める権限に基く場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」に違反していると主張した。しかし、花田の議論に沿えば、それよりも憲法21条の「表現の自由」に依拠して議論を展開すべきであったということになる。
NHKが放送法に違反していたというよりは、番組内容を事前に権力者に説明し、その意向を伺うということこそ「報道の自由」を脅かす。朝日新聞はそうやって議論を組み立てればいいのに、ある意味で「編集権の独立」を定めた放送法に依拠したために議論が混乱しているのだ。

 花田が指摘するように「編集権の独立」という概念を「報道の自由」に収斂させていくとしても、報道機関という組織の統治体制を設計するに当たって「編集権の独立」は、「報道の自由」の下位概念としてまだ有効性が維持できるように思う。

 例えばNHK番組改変問題で、朝日新聞社の記者会見に広報部の幹部が応じた。これを「編集権の独立」という観点で捉えた場合、おかしい。編集権が独立しているのであれば、編集局長、あるいは編集担当の役員が応対すべきである。

 日本新聞協会の「編集権声明」も確かにおかしい。「編集内容に対する最終的責任は経営、編集管理者に帰せられる」とすると、新聞社という営利企業のトップは、その新聞社の論調を決められるということになる。これでは「経営と編集の分離」という原則に違反する。例えば新聞経営に重要な広告主に不都合な記事を書かないよう編集に圧力をかけることを認めてしまうことになる。

 このように「編集権の独立」「報道の自由」という概念は、報道関係者でさえも深く考えずに濫用している。花田教授のような研究者を交えた議論が必要だ。

 花田の投稿で、ジャーナリストとしての「プロフェッショナリズムを根付かせることが必要だ。それがジャーナリズムの自由と独立、ジャーナリストの責任と倫理につながる」と主張している。このプロフェッショナリズムの議論に、単に「プロ」だけを参加させていては意味がない。ジャーナリストに何を期待するのか、どういう倫理を求めるのか。こうした議論は多くの人たちの意見に耳を傾ける必要がある。いまの報道関係者に、そうした謙虚な姿勢を求めたい。

Posted by halberstam at 2005年03月09日 | コメント(2) | Trackback(0)



TrackBack

この記事の TrackBack Ping-URL :
http://halberstam.blogtribe.org/tbinterface.php/fa862e01a8a8ff6584d1f7935c023c90



■ Unknown
はじめまして。編集が経営から独立するって、それって株主に対する背任になり得ませんか? メーカーで言えば従業員が勝手に商品作って売るようなものでしょう。どうしても独立(自立?)したければ、「噂の真相」がそうだったように、編集と経営を分離せずに、自分で経営権も持つべきでは、と思うのですが。その場合広告取りや営業活動も自分でやらなければいけないわけですが、それで初めて「自立したジャーナリズム」といえるのでは?
す (2005-03-15 00:39:00)

■ Unknown
本当に目から鱗です。
menthol_lights (2005-03-25 01:34:51)

名前 :
タイトル :
URL :
コメント :